百均クレヨンで絵を描いてみた

少し前にWatercolor by ShibasakiというYouTubeチャンネルを紹介した。相変わらずちょこちょこ見ている。最近ハマっているのは百均クレヨン画。柴崎先生の専門は水彩だから、クレヨン画の動画はとても少ないのだけれど、クレヨンは「図工」苦手人間にとっては鉛筆に次いで、とっつきやすい道具。4、5本あがっている動画すべてを見た。そのうちの一つがこれ。

で、先日久しぶりにダイソーに行ったので、柴崎先生「ご推薦」の百均クレヨンを探した。でも、同じものはなかったので、一番近そうな、「12色クレヨン(ワックス製)」を買って、さっそく動画を見ながら描いてみた。

空と海がまったく同じになってしまっているのはご愛敬。お手本とはだいぶ違う絵になったけれど、思いがけず、とても楽しかった! 図工コンプレックス、克服できるかなぁ。

今気が付いたけれど、「誰にも見られない」「通知表と関係がない」という点において、これは「図工」の課題とは違う。だから、コンプレックスとは無関係で楽しめる! 百均クレヨン万歳!……と、今日は「躁の日」? というか、今柴崎先生の動画をバックグラウンドで流しながら、書いているから、先生の声に癒されている。「癒しの日」!

実は上記の絵の制作過程は動画に撮ってあるのだが、こういうの(ほかの動画をお手本とした動画)って勝手に公開していいものか判断できず、未公開。「いろいろなことに挑戦する動画」チャンネルとかを作ったら、その時に考えよう。

(続報)このあと、百均クレヨン画に「ハマって」、2枚ほど描きました。苦手からは脱出できていないのですが、よかったらごらんください。
またクレヨン画を描いてみた
またまたクレヨン画を描いてみた

(続報20220203)この時から一年余の間に描いた6枚の絵を集めた「クレヨン画ギャラリー」を作りました。よかったらご覧ください。

ショーン・コネリーさんが亡くなった

ショーン・コネリーさんが亡くなった。またこの世界から一つ星が消えて、天の星となった。

『薔薇の名前』の中の(私にとって)最高のシーン。

https://youtu.be/qC9EG9Vh9CA

『アンタッチャブル』で彼が亡くなるシーンはつらすぎて、リンクがはれない。

黙祷。

宇宙を飛ぶ尺八曲『鶴の巣ごもり』

古琴のことを考えていて、ボイジャーに中国の代表曲として乗せられた『流水』のことを思い出した。それから、同じく日本代表曲として乗せられた『鶴の巣ごもり』がどんな曲だったのだろうと考え始めて、いろいろ検索していたら、その曲を演奏した山口五郎さんのビデオが見つかり、続いて、ゴールデンレコードに乗せられたいろいろな曲の音源ビデオが見つかった。その中の『鶴の巣ごもり』がこれ:

山口さんの演奏ビデオは古琴についての固定ページに入れ込んだのだけれど、それ以上脱線したくなかったので、こちらの音源を紹介するために別ブログを書くことにした。こちらは5分間なので、途中で切れているか、短縮バージョンなのだろう。10分の別動画でも「短縮バージョン」という説明があった。

すばらしい「日本の音」。

タクシーのコロナ対策

昨日、3月以来、半年ぶりにタクシーに乗った。病院に行って、帰りのタクシーがコロナ対策がしっかりしてあって、シンガポールすごいな~と思った。ほかの国でも、こういう対策しているのだろうか?

ちなみに、今日のコロナ感染状況は、出稼ぎ労働者関連11件、そのほかの市中感染はゼロ。無症状患者は無数にいるのだろうが、検査にひっかかる人がこの数に減少したとしたら、少し安心。高齢者としては今後はマスクは外出必須アイテムになると思うけれど、それで感染確率を「多少でも」下げられるのなら、それに越したことはない。

マスク一枚を「強制される」ことで人権が犯されるとか、自由が奪われるとか思っている人たちがいるみたいだけれど、自分が感染する、あるいは人にうつす可能性を少しでも減らせるなら、したほうがいいんじゃないのかな、単純に言って。(老人や弱者にうつしたい、そういう人たちを世の中から排除したい、と思っているのなら話は別)。

自分が「ぼんやり」しないで、しっかり目を開いていれば、こんなところから人権や自由にほころびは入らないと思うけれど。人権や自由って、もっと根本的なところで守るものじゃないのかな。ま、これはすっかり管理社会に慣らされてしまった人間のたわごとだけれど。

「マスクをしない自由」は尊重する。ただ、あなたのそばには近寄らない。

 

ミニチュア紙芝居をやってみた

昭和のはじめに街角でよく見かけた紙芝居屋さん。自転車のうしろに紙芝居の箱と駄菓子の入った箱を乗せて、路地裏で紙芝居を見せてくれた。今や若者の人気スポットになっている裏原宿の小さな坂道。あそこの下のところでよく紙芝居を見た。今のにぎわいからは想像もつかないほど、静かで、まるで田舎のような土と空気のにおいがした昭和20,30年代の原宿。なつかしい。

二日前にコンピュータにかじりついて「チャンネル名」を「小さな幸せ」にすることに成功した。その「小さなリニューアル」後、最初の動画投稿。この動画を観て、「あ、なつかしい!」とだれかが思ってくれたらうれしい。

鬱の日の日記

今日は鬱の日? なんだか、調子が悪い。左の指が大丈夫そうだとわかったから、喜ぶべき日のはずなのに。皮膚がちょっと変になっているから? 数日前から胃がしくしくするから? 前歯と奥歯が時々ずきずきするから? 相変わらず動悸がするから? それとも……要するに体のことがいろいろ心配なんだね。歳のせいだよ、って一言で片づけられればいいのだけれど。

こういう日もあるよ。何年ものあいだ、ずっともっともっと苦しい日が続いていたのだから。古琴や中国語、折り紙、本、YouTube……そんなものに助けられて、気持ちを紛らわすことができるようになったのはつい最近のことだもの。原因が取り除かれていないわけだから、後戻りすることだってあるさ。それに、確実に歳はとっていっているし、完全な健康体ってわけじゃないし。こんなものだよ。こんな時は、古琴を弾くに限る! さあさあ、立ち上がって、古琴の前に行きなさい!

Watercolor by Shibasaki動画がすごい!

最近 “Watercolor by Shibasaki”というYouTubeチャンネルを発見した。いつも言うけれど、私は絵が苦手で、すごいコンプレックスがある。というのも、小学校の頃から漫画が好きで、漫画のような絵は好んで描いていたのだけれど、いわゆる「絵画」的センスがゼロで、「絵」が描けない。図工や美術の時間は、今思うと屈辱の時間だった。

が、しかし、このチャンネルにはハマった。もっとも、第一目的は先生の笑顔を観ること。なぜか癒される。だから、いつもは視聴するだけ。ところが今日は鉛筆画の動画で、やさしい先生の声を聴いているうちに、「私にもできるかなぁ…」と思い始めて、急遽参加することにした。で、できあがったのがこれ。

目の前の机にあったノートと鉛筆を使ったから、すでに書いてあったメモの文字を途中で消したり(ウサギって耳が長い!)、鉛筆の芯が太すぎて細い線が描けなかったり、といろいろアクシデントはあったけれど、できあがったら、なんとなくウサギに見えて、自分でもびっくり。ウサギらしいものが描けるとさえ思っていなかったのだ!

これも柴崎先生のおかげ!

絵以外にも、朝のルーティーンとか料理の動画があるので、私はもっぱらそういう動画を選んで観ている。先生の専門である水彩画の動画は苦手かも。だって、美術の時間のトラウマがよみがえってくるから。癒しのために観ているから、そういうストレスは不要。先生の動画の視聴方法としては「邪道」なのかもしれないけれど、許してもらおう!

 

もう一つの小さな奇跡


これ、月です。

夜11時近く、窓に向かっておいてある古琴を小さな音で練習していると、ちらとカーテンの隙間から光が見えた。「えっ?」と思ってカーテンを開けたら、目の前にまばゆい光が見えた。白内障のせいか何でも3重(さんじゅう)に見えるので、とっさにはそれが何か認識できなかった。「月?」とは思ったけれど、この位置から見たことがなかったので、何度も見なおした。そして、月とわかってうれしくなって、部屋の光を全部消した。「月の光の中で古琴を弾きなさい」とだれかに言われている気がした。

でも、弦が見えない。それに、なんだかドキドキして指が動かない。暗譜していたはずのところも思い出せない。だから、しばらくぼんやりと月を見ていた。

今は、月はさらに高く上がっていて、左側には星も見える。すべてが3重に見えるのはすごくくやしい。でもきれい。とてもきれい。

思い出した、この月、別の角度から見たことがあった。何度も。悲しい悲しい月だった。今日の月は微笑んでいた。

(続報)後で調べたら、昨夜の月は月齢が16.9(満月が15)で、ほぼ満月だったことがわかった。あのまぶしさは満月の光だったのだ。そして、月の左側に見えたのは金星らしいことがわかった。当地はほぼ赤道直下で日本とは星の見え方が違うと思うけれど、日本語のサイトでは月の左側に明るく光る星は金星だと書いてあった。それにしても、眼鏡をかけても三重に見える私の眼で見えたのは奇跡。星をつくづく見るなんて、何年ぶりだろう!

中国語学習継続の危機

もう何か月も中国語のブログをあげていない。それどころか、中国語の勉強もこの数日していない。

原因はいろいろ。一つは3月の中国語検定試験が取りやめとなったため、差し迫った(次回は6月)受験勉強が不要(?!)となったこと。二つ目は学校が休校になったこと。宿題がないと家で勉強しないという、小学生レベルの生徒だからどうしようもない。三つ目は個人的な事情でやる気の維持がむずかしくなっていること。もちろん、世界的な(!)レベルでの事情もある。

そんなわけで、勉強がおろそかになっている。まずいなぁ……。

語学と楽器は毎日練習しないと確実に「忘れる」。この歳になると、毎日練習していたって、忘却速度に押され気味なのだから。実際、猛烈な速さで忘れているのがわかる。なんとかしないと全部忘れちゃうぞ! 今日はこれからなにがなんでも教科書を開く。ここで宣言すると、一応開くことは開くと思うから書いてみた「日記ブログ」。

思索時代


時々思うことがある。人類のこれまでの歩みを、狩猟採集時代、農耕畜産時代、工業(産業)時代、情報時代と分類した場合、5番目の時代は「思索時代」なのではないかと。あるいは、そうなるべきなのではないかと。これはある意味、原点への回帰と言えるかもしれない。思想家、哲学者たちがいろいろなことを考えていた時代への回帰。

いろいろなことを考えていた、というのはずいぶん平たい言い方だが、それ以外の言い方が見つからない。「人間は考える葦である」と言ったのはフランスの哲学者(そのほかにも「肩書」たくさん)パスカルだった。そう、人間は考える。ほかの動物だって考えてはいるんだと思う。でも、人間の思考能力はかなり高い。

個人的には、それがいいんだか、悪いんだか、わからない時もあるけれど。この思考能力を駆使して考えよう。しっかり考えたら、きっと「いい考え」が浮かぶ。きっと「いい方向」に歩いていける。そう信じたい。